あなたは、子育てにどんな意味を見出しますか?子育てに意味付けをすることで、自己犠牲の子育てから、卒業しませんか?

 

こんにちは。キャリア・セラピストAiです。

母になってから、4年半。

どこに行くにもついてきて、台所に立つだけで泣かれる、そんな激しい後追いの時期や、こっちがイヤになってしまいそうなほどのイヤイヤ期も過ぎ。

今は、どこからどこまでを許容し、何を叱り、何を教えるのか、そんなことに頭を悩ませたり、口が達者になってきた息子に、ついつい感情的に怒ってしまっては反省する日々です。

 

平日は、完全にワンオペ育児の我が家ですが、そんな中でも、私が、子育てのために自分を犠牲にしていると感じることなくいられるのは、子育てに、自分なりの「意味付け」をしているからかもしれません。

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1.子育てに「意味付け」をするということ

 

母として過ごす毎日の中で、私は、子育ては、まさに「自らの魂の修行」。そんな風に感じています。

確かに大変なことも多いけれど、子育ては、私自身を、ものすごく人間的に成長させてくれていると思えるのです。

 

そんな風に思えるのは、私が子育てに向いているからとか、心に余裕があるからとか、そういうことではなく、ただ1つ、決めていることがあるからだと思います。

 

私が決めていること。

それは、「子育ての中で、自分自身を成長させよう」ということです。

 

ただ1つ、そう決めているから、育児で落ち込むことがあっても、余裕がなさすぎて、いっぱいいっぱいになってしまうことがあっても、精神的にとてもしんどい日々の中でさえも、しっかりと立っていられるのだと思います。

究極的に言えば、子育ては、息子のためではなく、自分の成長のため。私は、そんな風に捉えています。

 

そして、どんな悩みも、自らの成長の糧になる。

それを確信しているから、子育てに悩みは尽きないと言いますが、裏を返せば、それは、自分の成長の種をたくさん提供してもらえる機会であると思えるのです。

 

また、

「子育てを通じて、自分を育てる。」「子供に教え、子供から教わる。」

その、自分主体の意味付けがあるからこそ、子供を所有物のようにとらえることなく、身体はまだ小さくても、独立した個として尊重しながら、子供に向き合えるのだという気がしています。

 

子育ては、「子供のために、子供を育てる行為」と捉えられがちです。しかしながら、この考え方にとらわれていると、そこには、少なからず、自己犠牲の精神が生まれてしまいます。

自己犠牲の上に成り立つ行為は、相手が自分の思い通りにならないとき、「こんなにやってあげているのに」という想いを生じさせます。

 

ですが、そこに、「自分のための子育て」という意味付けをしてみたら、どうでしょうか?

そうすることで、一見、子供のためのように思われる行動の中にも、「自分のため」という観点を持つことができるようになり、自分の成長や学びに繋げていくことができるようになるのではないでしょうか。

 

では、「自分の成長のための子育て」の具体的な意味付けには、どのようなものがあり、そこから、私たちは、どのようなことを学んでいくことができるのでしょうか?

 

2.意味付け その①【自分の未熟さと向き合う機会ととらえる】

 

おそらく、私は、子供を育てるという経験をしていなければ、ここまで自分の未熟さに向き合うことは、なかったと思います。

自分の未熟さに向き合うという作業は、とてもしんどいものです。だから、つい逃げ出してしまいそうになるのですが、子育ては、日々の生活の中で、否応なしに、その未熟さを私に突きつけてくれます。逃げさせてはくれないのです。

 

それでは、どんなときに、自分の未熟さを感じ、そこから何を学んでいくことができるのでしょうか?

 

まず、自分の未熟さを感じる機会というのは、大きく分けて2つあるように思います。

 

2.1 誰かと比較するとき

1つ目は、他の人と比較するときです。

 

周りのママたちを見れば、いつも優しく声掛けをして、穏やかで、きっとこんなママの子供なら、子供たちは幸せなんだろうな。そんな風に感じることもあるかもしれません。

幼稚園の入園前の1年間、母子一緒に活動するプレ保育に通いながら、私が驚いたのは、「みんな優しいな~」ということでした。いつもニコニコして、子供を見守って、楽しそうに一緒の時間を過ごす。

そんな姿を見て、「このママたちは、普段子供に怒ることなんかあるのだろうか?それに比べて、私は・・・」と何度思ったかしれません。

 

でも、そんな私でも、幼稚園や他の場で「怒ることあるんですか?」って、結構聞かれるのです。傍から見れば、私も穏やかに子育てしているように見えるらしいのです。

 

実際には、叱るを通り越して、感情を抑えきれずにイライラをぶつけてしまうこともありましたし、相手をすることに疲れて、適当にあしらってしまったことも数えきれません。

だけど、それでも、外では、そんな風に見えるんだ。そう知ったときに、比較の対象がズレていたことに、ようやく気付くことができたのです。

 

どういうことか。

 

外でそんな風に見えている、優しさを絵に描いたようなママたちも、実際のところは、どうか分からないということなんです。

ほんの一瞬の他人の外での様子を切り取って、自分の家の中での様子と比較し、自分はできていないと落ち込む。

こうして並べて書くと分かりやすいですが、言ってしまえば、相手の良いところと、自分のダメなところを比較して、落ち込んでいるようなものかもしれません。

 

そもそも、子供の性格も、母親自身の性格も、環境も違うのに、比較するということ自体に意味がないのです。

 

私が、子育てをする中で、学んだことの1つに、「比較することの無意味さ」ということがあります。

 

まだ何かに縛られることを知らない子供たちは、実にマイペースで、個性的。

生まれたばかりの赤ちゃんでさえ、性格というのか分かりませんが、これほど、それぞれに違うものなのかと驚かされることも多いです。

純粋な十人十色である、そこに比較という概念を持ち込み、落ち込むことほど無意味なことはないと、そう感じます。

だから、その十人十色の子供たちを対象としている子育てという行為においてもまた、他人と比較し、落ち込むことは無意味なことだと思うのです。

 

ただ、「比較」すること自体が、悪いということではありません。

というのも、使いようで、例えば何に長けているのかという指標として、その子の良いところを伸ばしてあげることに使うとか、苦手なことをフォローするために使うということもできます。

誰かと「比較」することで目標ができ、それが頑張る糧になるという場合もあるでしょう。

要は、使い方次第なのです。

 

ですので、【「比較」を落ち込む目的のために、使う必要はない。】そのことだけ少し、頭の片隅にでも置いておいていただければと思います。

誰かと比較して、落ち込みそうになったら、即、頭を切り替えて、違うことを考えるようにしてみてください。

2.2 自分の理想との乖離があるとき

2つ目は、自らの創り出した理想像との乖離を感じてしまうときです。

 

自分はもっと余裕を持って、穏やかに子育てができるはずだった。もっと子育てを楽しめるはずだった。子供と一緒に笑顔にあふれた幸せな毎日を送っているはずだった。

そんな風に、出産前、思い描いていた幸せな毎日と、現実とのギャップに苦しんだことはありませんか?

 

イライラを制御できなくて、つい感情的に怒鳴ってしまったり、そんな自分が不甲斐なくて涙してしまったり。

子育てに真剣に向き合っている方なら、誰しも、そういう経験があるのではないでしょうか?
もちろん、私にも、多々あります。

 

でも、こうした経験は、いつも私に、「自分自身を過信していること」を教えてくれ、ありのままの自分を受け容れるようにと導いてくれます。

 

子育ては、認めたくはないけれど、「未熟な自分が、確かにそこに存在すること」を示してくれるものなのです。

常に自分の未熟さと向き合っていかなければならない子育ては、子供が言うことを聞いてくれないとか、そういった子供ベースではない、自分ベースのしんどさを感じることも多いでしょう。

 

ですが、その中で、学ぶことというのも、とても多いと感じます。

 

私がこの4年半、自分の未熟さと向き合う中で、学んできたことは、

「未熟であることは、決して悪いことではない。」ということ。

ただし、

「未熟な自分を見て見ぬふりをするとき、そこに成長はない」ということでした。

 

だから、未熟な自分も、ありのままに認めてあげることを心がけています。と同時に、それでも頑張っている自分も認められるように、意識しています。

 

例えば何かが苦手だったり、感情に振り回されてしまう未熟な自分がいることも、そのまま認めて、同時に、今頑張っているということも認める。

その2つのバランスが、崩れてしまうと、自己嫌悪に陥ってしまったり、逆に向上心が失われてしまったりします。ですので、なるべくそのバランスをとるように気を付けるようにしています。

 

もし、あなたが子育てを通じて、自分の未熟な面に気づき、それを変えて成長していきたいならば、

「自分は、それをどう変えていきたいのか?(どうなっていきたいのか?)」

「その未熟さを創り出している要因は何なのか?」

という風に、自分に問いかけ、掘り下げてみてください。

 

そして、要因が見つかったら、「それは、どうしたら変えられるのか?」ということを考え、行動に落とし込んでいくのです。

 

そのときに忘れないでいただきたいことは、未熟な部分というのは、必ずしも、変えなければいけないというものではない、ということです。

 

今は、未熟なままを受け容れる、そういう選択肢もあります。アレもコレも一気に変えるのは、とても大変なことですし、あなたが心から変えたいと思ったときに、変えていくことに取り組めばいいのです。

物事には、タイミングというものがあります。あなたの心が、本気で変わること、成長することを願ったとき、それが1番のタイミングです。

 

向き合えないときは、目を逸らしてもいい。あなたにとって、本当に必要なことであれば、いくら目を逸らしても、また違った形で、次から次へと、あなたの目の前に現れるものです。

やはり逃れられないのだと観念したとき、あなたの心の奥底では、もう変わることの準備ができているはずです。そのときは、じっくり、ゆっくり、焦らずに、ご自身の成長させたい部分に向き合ってみてください。

 

 

今日は、子育ての意味付け、その①ということで、「自分の未熟さと向き合うこと」について書かせていただきました。

次回も、子育ての具体的意味付けについて、引き続きお届けしていきたいと思います。

最後までお読みいただいて、ありがとうございました。

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この記事の執筆者

キャリア・セラピスト Ai

キャリア・セラピスト Ai
キャリアカウンセリングを学び、国立大学での就職支援、 大手企業での人事教育の仕事を経験。その後、心・精神への興味から、カラーセラピーやヒーリングを学ぶ。
仕事だけでなく、子育てや趣味など「生き方」そのものが「キャリア」であると位置づけ、『より自分らしく、楽しく生きる人』を増やすため活動中。4歳の男の子のママでもある。